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近代日本と歩む鎌倉ハム沿革史
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このようにして当社は約百二十年前に誕生しました。
星S印が当社のトレードマークですが、このSは齋藤の
イニシャルを表しています




創業1887年
横浜の戸塚宿に日本で初めてハム工場を設立、登場したハムは、食卓に新風を吹き入れ、
次第に広がって行きました。

明治二十八年には博覧会に出品して賞状が授けられ、明治三十年代にはいると海軍に
認められて軍艦にも積み込まれ、さらに陸軍にも納入されるようになりました。
明治四十四年には明治屋と製造の契約を結び、発展を続けた明治は大正の時代と変わりました。

大正時代に入ってもつぎつぎに開催された勧業博覧会などでもその度に褒賞を獲得するなど
安定した名声は昭和に入っても続きました。
大正十二年の関東大震災では鎌倉ハムも大きな被害を受けました。
その復興の中、先々代社長の高橋照之助により、地のりのいい東海、関西への進出を考えました。
この地方は養豚業が優れていて優秀なブタの産地でもありました。
大正十三年、名古屋市西区に新工場をつくりこの地での生産を開始しました。
名古屋での基盤を築くこと十年余、昭和十年市内中村区亀島町(現在の本社所在地)に
本格的な工場を建設しました。新工場は当時としては最高水準の設備を持つ新鋭の工場でした。
ところがまもなく昭和十六年には日本軍が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まりました。
そして戦況は日を追って悪化し、昭和十九年には物も無くなり、人も戦場に取られ、ついに
工場は閉鎖されて、昭和二十年夏日本は敗れました。




戦争末期には軍需工場に転換していた亀島工場は、敗戦で建物だけが残るという状態で全社員、
呆然としていました。





しかし高橋照之助の前に現れたのは翌昭和二十一年、アメリカ人の貿易商、J・D・ミラー氏が共同経営の話を持ちこみ、鎌倉ハムはJ・D・ミラー商会として
復興をすることになりました。
昭和三十年十一月、鎌倉ハムJ・D・ミラー商会は株式会社鎌倉ハムと名称を変え、内容を一層充実させてスタートすることになりました。
ここに戦後の鎌倉ハムの歴史がはじまりました。それから既に四十五年、時は変わり中途では若干の蹉跌もありましたが、先代社長高橋邦明は昔ながらの
味を大切にしながら発展し、西隣の海部郡甚目寺町に移転し、施設の近代化を図りました。平成十一年、工場は新しい食品衛生管理システム(ハセップ)に
基づいて全面的に改修を行い、この春にはより高品質のハム・ソーセージの生産に精進できる工場が完成いたしました。
横浜の戸塚宿に誕生したハム工場、鎌倉ハムは、百二十年の歳月を経て優れた伝統の技術と、高い品質の製品により、名古屋地方を中心として消費者の
皆さんから揺らぐことのない、絶大なご信頼をいただいています。

「ものづくり」の大切さが最近はとかく忘れられようとしています。しかし鎌倉ハムではこのことが活動の基本です。
どうか当社の製品をいつまでもご愛顧ください。簡単でしたが当社の歴史とその沿革をご説明しました。




「明治」と世が改まって、政府は「異人の国に遅れをとるな」政策を始めました。
西欧文明を進んで取り入れようということです。横浜には西欧の風が吹き込んで、多くの異人が
それぞれの野望を抱いてやって来ました。イギリス人ウィリアムカーティスもその中の一人でした。
彼の前歴はいろいろいわれるがよく分かりません。上海でホテルをやっていたというが、これは
あてにならず、どうやらコックでもやっていたようなことでした。カーティスは明治七年、
神奈川県鎌倉郡川上村(現在の横浜市戸塚区)でハムの製造を始めました。そして横浜で主に
外国人相手に製品を売っていました。
カーティスはよく川上村の綿屋という馬車宿に遊びにきていました。
そしてそこに働いていた「かね」という器量良しの娘と親しくなってしまいます。
二人の間にはいろいろありましたが、やがて夫婦になります。
明治十年のことでした。この時カーティスは四十歳を少し越え、かねはまだ十九歳でした。

カーティスはかねとの約束に従って、川上村上柏尾にホテルを作りました。
彼は「白馬亭」と名前をつけましたが、ホテルの前には馬の首の模型が置いてあったので、
村人は誰も「馬の首」ホテルと呼びました。
商才にたけていたカーティスは、横浜の居留地の外国人を相手に次第に商圏を広げて、ホテルも
繁盛してきました。



カーティスは敷地に家畜の飼育場をつくり、豚・牛等を飼い、さらに加工場も増設してハム、牛乳、バターなどもつくっては売って、横浜の二十番館
(現在のニュー・グランドホテル)も顧客にするようになり、その商売は一気に伸びていきました。ところでかねが以前に厄介になっていた柏尾の大庄屋齋藤家
では、長男の満平が評判のハムを作ってみたいと思っていました。
そしてかねを通じてカーティスに会い、ハムの製法を正式に伝授してもらいました。
明治二十年十月、齋藤満平は会社を興して、ハム、バター、ラード製造所齋藤本店を開業しました。
その後日本郵船の食堂で使われていた齋藤のハムが好評で、外国人からも評判が高くなり、土地の名をとって「鎌倉ハム」と呼ぶようになっていました。
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